堀尾の本棚

佐藤優『国家と資本主義 支配の構造 同志社大学講義録『民族とナショナリズム』を読み解く』

佐藤優『国家と資本主義 支配の構造 同志社大学講義録『民族とナショナリズム』を読み解く』(青春出版社・令和4年)

アーネスト・ゲルナー『民族とナショナリズム』をテキストに,著者が同志社大学で行った講義の内容を収録した本です。ナショナリズムについて,大学生レベルにかみ砕いてわかりやすく説明されており,大変面白かったです。

…つまり,近代の国民国家が成立していくなかでわれわれは日本人である,日本民族であるという意識が,当時の人々に芽生えてくる。…つまり,「ナショナリズム」という概念が先行して,そのあとに「民族」という概念が起きてくる。つまり,「民族」という概念は後付けだ,という考え方だよね。
(36頁)

 要するに,成功した1つのナショナリズムの背後には,成功していないナショナリズム,潜在的ナショナリズムが多数あるんだ,ということ。…それが表面化すれば,「爆撃,受難,住民の入れ替えや,いっそうひどいこと」も起こりうる。それだから,世界中のすべてのナショナリズムが完全に満たされることは不可能なわけです。ナショナリズムの原理が平和的に実現しないというのは,そういうことだね。
(46頁から47頁)

 日本人はすごいとか,日本人こそ貴いとか主張する人がいるけど,じゃあその背後にきちんとした理屈や論理があるかというと,彼らには説明できないよね?
…ナショナリズム運動に参加する人々には,そういった核となるものが見当たらない。そこにあるのは,単なるエモーショナルなものだったり,言葉で言い表せない曖昧なイデオロギーのようなものだったりする。

 「共同主観性」という言葉があるのね。現象学を確立したドイツの哲学者,フッサール(1859~1938)が提唱した概念なんだけど,自分ひとりだけが持っている「純粋な主観」というものは実は存在しなくて,自分が「正しい」と思っていることは,みんなが「正しい」と感じているに過ぎない」というものなんです。
…日本人はすごいとか,日本人こそは貴いとかいう考え方も,まさにこの共同主観性によるものだと言える。
…逆に言うと,この「共同主観性」というカラクリを知っておくことで,私たちは暗示から抜け出して,物事を客観的に冷静に判断することができるというわけです。
(118頁から119頁)

 「共同主観性」,いい言葉ですね。実際,「正しい」とされることは時代によって変遷するわけです。私は最近,学校や企業でしょっちゅういじめやハラスメントの講義をしていますが,いじめやハラスメントに対する考え方は1世代違えば全く異なります。これも共同主観性でしょう。

 

 教育というと,教養を高めて人間的に成長し,自己実現をするために不可欠なもの,とわれわれは考えがちだけど,産業社会における国の教育というのは,要は,「産業社会に必要な,取替のきく汎用性の高い人材を作り上げること」が第一の目的ということになります。
(67頁)

 だから,「この社会は,永久の椅子取りゲームである」と見極めたうえで,そこから距離を置いて冷静でいることがとても大切なわけです。(103頁)
「永久の椅子取りゲーム」から逃れるためには,われわれは結局どうすればよいだろうか?
 1つは,椅子取りゲームで勝ち残るということ。自分がトップになるまでがんばること。もう1つは?ゲームから,上手に降りることだよね。
 わたしは,ある段階までは椅子取りゲームに参加した方がいいと思うんだ。競争するなかで,実力がついてくるからね。でもあるところで,これ以上はもう上に行けないと思ったら,それはやっぱり自分なりの理屈を考えないといけない。
 だから最近わたしは,社会人になった人によく言っているんだけども,出世の限界が見えてきたりとか,能力の限界が見えてきたりしたら,イソップ物語の「酸っぱい葡萄」の話を思い出しなさい,と。
…高いところにあってどうしても手が届かないものを,「きっと酸っぱくてまずいに違いないとする発想の転換は,「敗者の知恵」としてとても大切なことだと思っているんです。
(106頁から107頁)

 佐藤先生の意見,よいですね。競争は成長のために大切ですが,上を見たらきりがありません。そこそこで競争から降りなければ疲弊してしまいます。そこそこまで競争に参加して頑張れば,生きていく上では問題ないくらいの能力が身についているはずです。
 あとは,自分の売り,オリジナリティを付加していけば,あるいは別の得意分野と掛け合わせて1万人に1人くらいの人材を目指す,というのは別の本で読みました。IQと愛嬌を高め,そして愛称(タイトル)のつく人間でありたいものです。

 …結局,差別の問題というのは何に関係しているかというと,じつは経済力なんです。差別する側というのは,その社会における経済的な弱者であることが多い。(138頁)
 …だから差別から解放されるためには,1つには,高い教育を受けて安定的で高収入の仕事についたり,スポーツ選手や芸術家になって圧倒的な才能を武器にのし上がったりする方策がある。この方策は,既存社会に同化するという方向だよね。もう1つは,革命や講義運動などによって,社会構造そのものを変えてしまうことだ。
…皮膚の色などの形質的な違いは,それを変えることができないという点で,完全にどうかすることが難しいということだよね。だから人種差別を克服するには,「社会構造を変える」という選択肢しか残らない,とゲルナーは言っています。(139頁から140頁)

 感覚としてよく理解できます。経済格差が広がり,「社会の分断」がいわれて久しいですが,経済的強者,社会のエリート層はあんまり差別意識がありません。むしろグローバルな世界で他国のエリート層に共感を覚えています。

橘玲『上級国民/下級国民』

 経済的弱者はより弱者を作出するんですね。そうしないと,自分たちが脅かされると感じてしまう,というのが本書の立場です。ネット上で差別的だったり,優生思想的な投稿をみると,「書いている人は経済的に苦しいのかな」とも思ってしまいますね。

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